明治の文様
明治の文様においては、江戸の流れをそのまま受け継ぎながらも、新しい時代の文様染が求められ、例えば写生的な表現などに顕著です。しかし、新しい文様はなかなか想像されず、ぼかしを入れた絵画的な絵文様の出現などに、その混迷の程を見ることができます。
明治も30年代に入るとようやく、新しい文様の形式が見られるようになりました。
当時フランスで流行した、アール・ヌーボー(曲線を主体とした美術様式)の影響を受け、日本風な雲や流水などを曲線や渦巻に見たてたり、蔓草〈ツルクサ〉などをあしらったものが、一時的に流行しました。
また、文様の題材に、はじめて洋花が用いられたのもこの頃です。
明治後期には、さらに主題をひろげて動植物をアール・ヌーボー風の曲線で表わしたり、いろいろな試みがなされています。
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緑縮緬地歌仙色紋付
坂田真一郎所蔵
山水風景模様訪問着
宮嶋染匠所蔵
庭に垣模様訪問着
宮嶋染匠所蔵
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明治から大正へ
明治の混迷から大正に入り、新しい文明は定着してきましたが、第一次世界大戦が起こり、戦後の国内情勢も不安定なままでした。
その中で、キモノの文様製作も、絶えず新しい試みを繰り返し続けられていました。
大正期の文様としてはセゼッション風の縞柄、更紗やエジプト文様が流行のテーマとなっていたようです。
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昭和の始まり
明治の文明開化の影響による混乱や模索に似た現象は、2つの大きな戦争により、中断されたり、逆流したりしながら、第二次世界大戦後なおしばらく続いていました。
キモノの文様においても、マチス調やピカソ調などが流行のテーマとして、大まじめに取り上げられたのも昭和30年頃です。
そしてこのような、外来の文化に対する日本人の反応は、核時代に見られましたが、常に日本人ならではの世界を構成する方向にむかい、独自の美意識による表現を示すこととなります。
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